Original Aim







  ギリシャ、聖域




  日本での就職活動中、デスマスクと名乗る男によって突如拉致連行されてきたが、ここでの生活を始めて既に1ヶ月が過ぎようとしていた


  嘗て大学を休学してまで世界中を旅して回ったではあったが、流石にこのような場所で突然暮らせ、と言われても戸惑うのが現実というものであろう


  ゴツゴツとした岩肌の露出した荒涼な大地、古代文明そのものの建造物群、そしてそこで暮らす言葉の通じない人達



  右も左も、判らない



  それがの、正直な感想だった






  聖域に連れて来られた日の夕刻、はデスマスクに手を引かれて、永劫に続くかと思うほど長い階段を登り、女神神殿へと通された



  「まあ……、貴女がさんね。お話はこのデスマスクから耳にしています。遠いところからよくお越しくださいました。…私は、沙織と申します。」


  どこからどう見ても、13歳とは思えないその少女は、菫色の髪を緩やかに揺らしながらに手を差し出した


  「あ…は、はい。…と申します。宜しくお願いいたします。」


  は沙織の手を取って軽く握手をしながら、嘗て自分が垣間見た世界が如何に狭いものであったのかを痛切に実感すると共に、
  しかし今後の自分が一体どうなるのだろうか、と行く末を思わずにはいられなかった



  「…女神、堅苦しいご挨拶はどうぞその位にして頂けると助かるのですが。…いっちゃあ何ですが、彼女は今日こっちに着いたばかりで、
  疲れもしてるでしょうし、混乱もしているでしょうからね。」


  のそんな心境を悟ったのか、沙織の前に膝間づいていたデスマスクが足を一歩、前に進めて口を挟んだ


  「…それもそうですわね。さん、貴女も突然のことでお疲れでしょう。ごめんなさいね、気が付かないで。
  さん、貴方には、今後こちらで現在欠員中の泉守の役職に就いてもらうことになるでしょう。
  …詳しいことは明日にでも、こちらからお伝えしますね。…では、デスマスク、後のことは責任者である貴方に全て任せますよ。」

  「はっ。…畏まりまして。」


  デスマスクが顔を伏せると同時に、沙織は神殿の奥へと身を翻して消えていった






  「おう、どうした、。ぽか――んとして。口、開いてるぜ。」

  「わっ!…っと、びっくりするじゃない、脅かさないでよ。」


  先程までの恭しい態度とは恐ろしくかけ離れた調子で、デスマスクはの背中をぽん、と叩いた


  「、どうした?…怒ってるのか、俺のこと」

  デスマスクは何時もの悪びれない表情での顔を覗き込んだ


  「いいえ。そうじゃなくて。…あの沙織さんって人、とっても綺麗ね。ちょっと驚いちゃったってとこかな。」

  「なんだ、そんなことかよ。…いやー、アレはアレで、結構良い根性してるぜ。」

  「デス、あんた自分の主君に対して、よくもそんなこと言えるわね―…。」

  「ん?…まあ、いろいろ紆余曲折ってやつがあったからな、昔は。」


  デスマスクは口の端を僅かに上げて、ニヤリと笑った


  「…ま、いいわ。でも、ねえ、あの「泉守」って何のこと?」

  「ああ―ん。あれか。この聖域には、泉の湧いてる場所があるんだよ。…たしか俺の宮の近くだがな。いうなりゃあ、そこの管理人だな、ただ単に。…心配か?」

  「…い―え、全っ然。それよりも心配なのは、今晩私が寝るところなんだけど。…まさか、デス、あんたのとこじゃないわよね。」


  がデスマスクを睨め付けると、デスマスクはヘッ、と不敵に笑って見せた


  「あったりまえじゃねえか。、お前はこの俺様のところに永久就職に来たんだろうが。…俺と一緒に寝てどこが悪い?」

  「良くない!デス、あんたと一緒に寝ただけで、体がヘンになりそうだわ!いくらあんたに付いて来たからと言って、それだけはお・こ・と・わ・り!」


  は自分の舌を出して所謂「あかんべ」ポーズをした
  思いっきり嫌味を言ってやったつもりでいたのその口元は、次の瞬間デスマスクに塞がれていた



  「んんんん―っ!」



  突然のデスマスクの襲撃に、今にもが暴れ出そうとしたところで、ようやくデスマスクの唇がから離れた


  「お前、そんなに無防備に舌なんか出してると、吸われちまうぞ。」


  デスマスクは、ククと喉元で低く笑って見せた


  「!!もう自分でやっといて何いってんのよ!!ちょっと待ちなさいったら!」

  怒ったがデスマスクをグーで殴ろうとした時、デスマスクが右手を差し出した




  「…おら、帰るぞ。…疲れてるだろ。」


  「……。」

  デスマスクの一言に怒りの方向を封じられたは、振り上げていた拳を頭上で止め、静かに下ろしてその右手を取った



  「…意外とな、ここは夜は冷え込むんだぜ。建物の構造上もな。風邪なんか引くんじゃねえぞ。」

  「………。」

  「ま、なにはともあれ、よろしく頼む…。」

  「……ええ。こちらこそ、ね。」


  が固い表情で答えると、デスマスクは空いている左手で、自分の頭をボリボリと掻いてみせた
  繋いだ手から意外なほどの温もりが伝わってくるのを、は俯きながら感じていた









  双児宮の脇をしばらく分け入った森の中に、その泉はあった

  泉の周囲だけ木はきれいに伐採されているようで、背の低い草が生い茂っていた


  「うわ―、綺麗」


  放射状に波紋を描き続けて、澱むことなく水が湧き続けている
  水の噴出する中央の部分では、銀色の砂が水と共にゆるやかに舞い続けていた

  泉に向かって走り出したは、そのまま縁に屈みこんで掌で水を掬った


  「おっと、危ねぇぞ、。そこの水は飲まねえ方が良い。…よく見てみな、その泉、魚がいないだろ?」


  デスマスクがの手を引き留めた
  は、デスマスクに言われた通り泉の中を覗き込んだ
  …確かに、一匹の魚もいない


  「その砂はな、銀星砂といって一種のレアメタルなんだ。だから、水にも少しばかりはその成分が溶け込んでいるんだ。
  飲んで体に良いという話は聞いたことがねぇな。」

  「ふうん、そうなの…。」


  ぱしゃん
  残念そうに水を掌から泉に戻すに、デスマスクは言葉を続けた


  「で、その銀星砂は、ここいらの国ではここでしか採取できないシロモノなんだ。…主に、とある用途に使われるんだが、まあそこそこの需要がある。
  だから、この泉には代々、管理人が駐在して泉を守り続けてるってことらしい。」

  「…その泉守に、私が…?」

  「ああ、女神直々の勅命だ。今朝の御前会議で正式に宣告が成された。」

  「そんな重要な役職に、私みたいな人間がほいほいと任命されるものなの…?」


  が訝しげに顔を上げると、デスマスクはおやおや、と言わんばかりに肩を竦めた


  「あ――?別に気にすることはねえんじゃないか?あの女(女神)が言うことだし。…それに、泉の管理って言っても、実際はたいした仕事はないみたいだしな。
  …ただ、誰もいないよりはマシってことじゃないのか?」

  「そうかな…。そんなものかな…?」


  が更に深刻な表情を刻んでいると、その肩をがっしりと捉まれた



  「…たまには俺の言うことも信じてみろ。」


  デスマスクの紅い瞳が、の目の前で鋭く光を帯びた



  「大丈夫だ……、お前なら、できる。」



  これまでになく真摯なその視線を、は外すこともできずに直視し続けていた
  まるで強い暗示を掛けられているかのような錯覚に、は襲われた



  「う……うん、やってみる。…デスがそこまで言うんなら、やってみる、私。」


  ようやく口が利けるようになったは、呼吸を乱しながら答えた

  「よっし、決まりだな。…って、もうあの女の宣言が出てる以上はお前に拒否権はないようなもんだけどな。」


  がばっ、といきなり立ち上がり、デスマスクはを泉の縁から引っ張り起こした
  …そして、そのままズンズンと泉の周囲を横切って森の奥に向かった


  「ちょ…ちょっと、デス、どこにいくのよ?…私の任務はこの泉の管理なんでしょう??」

  「…だから、泉守の小屋に連れて行ってやろう、としてるんだよ。」

  デスマスクは後ろを振り向きもせず、の腕を強引に掴んで、半ば引き摺るように森の奥へ奥へと進んだ






  

  泉から50mほど離れた森の中に、小さな小屋が見えてきた


  周囲の森林に紛れ込むかのように、緑色に塗られた屋根と茶色の壁
  …の国の感覚で説明すれば、差し詰め2LDKぐらいの広さを持つ平屋の一軒屋だろうか

  雨戸も固く閉ざされ、暫くの間、人が暮らした形跡は見られないようだった


  「ここ…?…ここで暮らすの?私。」


  は、あまりにも人気の無いこの小屋にこれから一人で住むことが不安になってきたようだった
  以前の日本の学生暮らしから考えれば、それも無理からぬことだろう


  「ん――?そりゃそうだろう。…でもよ、思ったほど悪くないんじゃないか、中は。」


  デスマスクは、徐に正面のドアのノブを握ると、勢い良く開いてみせた
  …もうっ、と久々に光を受けた小屋の奥の方で埃が舞った


  「、入ってみようぜ。…おっじゃましまーす」

  「あっ、ちょっと!」


  デスマスクはの制止を無視して、つかつかと小屋の中に上がりこんだ

  ミシッ、ミシッ、ミシッ

  木の床にデスマスクの靴の触れる音が響く
  もデスマスクの後を追い、小屋の内部に上がりこんだ


  「お――、なかなかいいんじゃねえ?この部屋」


  玄関を抜け、小さな廊下の奥のドアを開けると、広々としたダイニングルーム、キッチン、浴室+洗面所、そしてダイニングルームの奥にもう一つのドアがあった


  「…やっぱ、2LDKだったわね…。」


  が無意味に呟くと、デスマスクはプッ、と噴出した


  「お前、不動産屋の素質でもあるかもな。いっそ、泉守はやめにしたらどうだ?」

  「…だからと言って、此処に不動産屋があっても儲かりっこないけどね。」


  も、ふふ、とデスマスクの一言にどこか安堵したように笑った



  「ねえ、このドアの向こう、何かしら」


  ダイニングの奥のドアを、は指差した
  若草色の木製のドアには、真鍮のノブがついている
  暫く誰も使用していないためか、真鍮の部品はどんよりと曇った色彩を帯びていた
  ノブの色の如く、不安そうな仕種を見せるの替わりにそ―っとドアを開けて、デスマスクはひゅっ、と口笛を吹いた




  「の寝室、一番乗り――!」

  「あッ、勝手に入らないでよ!デス、聞いてる??」


  どたどたどた
  凄い音を立てて、は寝室に駆け込んだ




  「…うわっ、なにこれ…??」



  寝室に足を踏み入れたは、その光景に暫し、唖然とした


  淡いピンクの薔薇の柄を所々に散りばめた白い木の壁……はまあ良いとして
  窓のカーテンは恐ろしくヒラヒラのレース

  …そして、何故か部屋のど真ん中に置かれたベッド
  …その上には、見ているこちらが恥ずかしくなるような立派な天蓋が付いていた
  天蓋の布は、ブルーローズを散りばめた薄い青色で、たっぷりとしたギャザーが取られている


  「こりゃ、すげ―な。…なんか、如何にもってカンジだよな、。」

  「あ……、ええ…。」


  このベッドで寝ている自分を一瞬想像して、の頬は紅潮した


  「…なんなら、これから俺と寝るか?ここで。」


  の脳内の想像を予測してか、デスマスクはの耳元にその唇を付けて囁いた


  「デスッ!あんたいい加減にしなさいよっ!…もう、もう、もう!!」

  「はははっ、怒ったもソソるぜ。」


  のチョップをひらりと交わし、デスマスクは寝室のドアの方へ退いた


  「じゃ、お前もここの掃除やら手入れもあるだろうから、俺は帰るわ。また来てやる。」

  「…もう、来なくても結構よ。」

  「無理すんなって。独り寝が寂しいんなら、俺様がいつでも一緒に添い寝してやるからよ。じゃあな。」


  デスマスクは、自分の顔の前で手をヒラヒラと翻して見せると、ドアの向こうに消えていった






  「は―――。」


  玄関のドアが閉じられる音を確認して、は大きく溜息を吐いた

  ベッドの端に腰掛けて、窓のほうを見遣る
  レースのカーテンの向こうに、微かにだがこれから自分が守るべき泉が見える
 
  水の在る風景、というのもまた風情があっていいのかもしれないな

  ぼんやりが考えていると、突然一つのことに気が付いた


  「あっ、泉守の仕事って、どんなのか細かい話を聞き損ねた!!」


  もう一度、デスマスクの後を追いかけようか、と思い悩んで、はベッドから立ち上がった
  「やっぱり俺が恋しいんだろう?」と言いたげにニヤニヤしたデスマスクの横顔が、脳裏を横切る



  「ええい、仕事は仕事!任された以上はきちんとこなすのが私の信条だ!」


  寝室のドアを勢い良く開いて、半ばドスドスとダイニングの中ほどに差し掛かる
  そのまま真っ直ぐ玄関に向かおうとして、木のテーブルの上に大きな茶色の封筒が置いてあることには気がついた


  「…?」


  封筒を開けると、中から何枚かの書類が出てきた


  「これ…、泉守の仕事のマニュアル…?」


  書類には、泉についての解説や、水質管理の方法、報告書の記入方法、緊急の場合の連絡先から果ては草の手入れに至るまでの
  細々とした職務内容が記されていた


  「…凄い。…まるでファストフードの店のバイトみたい。」


  はぷっ、と小さく噴出しながら、しかしことは仕事、と真剣にそれらの書類に目を通し始めた


  「ん?…なに、これ。」

  書類をめくっていたの手を、つつ―っと一枚の小さな紙切れが滑り落ちた
  空いていた左手で拾い上げると、どうやらメモのようだった





        『何かあったら俺を呼べ。……仕事、頑張れよ』





  …乱暴に走り書かれたその不器用な筆跡の主は、あの男に違いなくて
  は思わず口元を緩めた



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